新たな高齢者像をみなで作り上げていこう

4人に1人が65歳以上という、お年寄りが当たり前にいる社会

19人に1人から、4人に1人へ

65歳以上の高齢者が日本の総人口に占める割合(高齢化率)は、 1955年にはわずかに5.3%だった。そして、その10年後の1965年でもまだ6.3%だった。

それが今はどうなったか。大体の数字はご存知だと思うが、2015年の高齢化率は、26.7%である。19人に1人だった高齢者が、4人に1人以上になったということになる。60年でこれだけの変化が起こった。

「お年寄りは貴重な存在であり大事にされるべき」という儒教的価値観が薄れてきた

現在の高齢者が子どもの頃には、高齢者は19人に1人しかいない程度の希少な存在だったから、「お年寄りを大事にしよう」という教えもすんなりと頭に染みこんだだろう。

しかし、今では4人に1人が高齢者である。もはやお年寄りは珍しいどころか、当たり前にそこかしこにいる存在であり、社会における大きな層を占めるようになった。

「お年寄りは貴重な存在であり大事にされるべき」という儒教的価値観に基づく躾や教育で育った現在の高齢者たちの固定観念と世の中の実情は全くそぐわなくなってきてしまった。

親子世代における摩擦が増えてゆく

儒教的な価値観が薄れてきたこともあり、長幼の序や目上と目下の関係というものが若い世代にはピンと来ない。一方で、そういう価値観で育てられてきた高齢者は、自分たちは年上かつ目上であり、敬われてしかるべきであるという感情が底流にある。そこに摩擦が生ずる。

高齢者が「私たちは嫁姑の関係で苦労して…」とよく言うが、昔は子どもの数も多かったので、実際には嫁姑が同居する組合せはそこまで多くなかった。子どもの数が減ってきたと同時に親の寿命も長くなってきた今やこれからの方が、年を取ってからの親子関係や義理親子関係は難しくなっていくだろう。

高齢者が敬われることはかつては重要な意味を持っていた

高齢者が敬われるべきというのは単に儒教的な「べき論」だけではなく、実利的・実質的な意味があった。産業革命が起こり工業化社会が登場するまで約1万年もの間続いた農耕社会のような変化が緩やかな環境では、高齢者の記憶や技能がデータベースとして重要な意味を持った。

また、人間自体が記録媒体の役目を果たしていたので、その存在自体が貴重だった。そして、平均寿命が短かったので、珍しく長生きをして知識や知恵をため込んだお年寄りたちは、長老や賢者として極めて大事にされただろう。

家庭が職場でもあった時代の濃密な運命共同体的な家族関係

また長い間、人類は先祖と同じ仕事に家庭内で従事してきた。祖父母や父母の教えはそのまま仕事の指針となり、知識や技能は口承と伝授で伝えられた。しかし、分業社会が発展し、教育が外部化し、親の仕事を継ぐということが激減した。「家庭イコール職場」でもあった環境が崩れ、家族の機能も変化した。

このように家庭が職場そのものでもあった時代においては、祖父母や父母は親であるだけでなく、教師でもあり、上司でもあり、先輩でもあった。その時代の濃密な運命共同体的な家族関係を元に築き上げられた価値観や倫理観を、そのまま「べき論」で現代に当てはめようとすると無理が生ずる。

お世話をされるだけの受動的な高齢者像からの脱却

すでに私も50歳を超えた。高齢者、お年寄りという話ももはや他人事ではない。敬われつつも遠ざけられる、あるいは一方的にお世話をされるだけといった受動的な高齢者像に、やがて自分自身がはめ込まれてしまうのも納得がいかない。

高齢化社会における能動的な高齢者像と、情報化社会におけるシニア層の前向きな位置づけをみなで作り出し、共有していきたい。