負の嫉妬は本人にも社会にも害悪しかもたらさない

妬みや恨みは他人を不幸にするための呪術ではなく、本人を焼き殺す呪詛

他人を羨ましく感じることによって心に痛みが走ることがある。この感情を嫉妬あるいは妬みと呼ぶ。ここでは、男女間のやきもちは別のものとして脇に置いておく。

良い妬みと悪い妬み

妬み(嫉妬)には、良い妬み(正の嫉妬)と悪い妬み(負の嫉妬)の二種類がある。

良い妬みは「自分もああなりたい」という前向きなエネルギーに転化される。他人の存在が憧れや目標となり、なりたい自分の姿が具体的にはっきりと目に見えるようになることで、努力を向ける方向性が明確になる。

悪い妬みは「自分と同じ水準まで引きずり落としてやりたい」という後ろ向きの悪意に転化される。自分よりも恵まれていたり成功したりしている他人の存在が常に目障りで仕方なく、彼らが幸せそうだから自分が不幸を感ずるのだという身勝手な理屈を生み出し、他人の幸せを呪い不幸を願うようになってしまう。

負の嫉妬は害悪しかもたらさない

自分よりも幸せな他人が許せない、自分と同じレベルまで引きずりおろしてやりたいという悪い妬み、すなわち負の嫉妬は、嫉妬する本人だけでなく、その対象にも、そして社会全体にも害悪しかもたらさない。

なぜなら、幸福レベルがゼロの人が、幸福レベル100の人を自分と同じところまで引きずり降ろしたとしても、社会全体の幸福総計からレベル100の分だけ幸福が消え去るだけであり、世の中に何らのプラスももたらさず、マイナスしかない。生み出されるものがあるとすれば、引きずり降ろすことに成功した本人が感じるどす黒い喜びだけである。

負の嫉妬が充満している息苦しい社会

このような負の嫉妬が充満している社会ほど息苦しいものはない。そういう社会では、常に成功者や恵まれた人たちに対する妬みや怨嗟の感情が充満している。彼らに少しでも油断や隙があれば、寄ってたかって足をすくって転げ落とし、地面に落ちたところを皆で取り囲んで棒で叩こうとする。

人びとが互いに他人の幸せを叩き壊すことに必死になっているので、社会全体が建設的ではなくなり、破壊的な雰囲気で満ち満ちてしまうことになる。

己や大事な人たちの幸せを増やすことに当てられるはずの貴重な時間やエネルギーが、他人の幸せを叩き壊すことに向けられる。何と愚かしいことだろうか。

人の不幸は蜜の味という後ろめたい喜び

実際われわれの社会でも、ゴシップ誌や写真週刊誌、そして文春砲などで暴露されるスキャンダルや不祥事によって有名人が突如として名声や地位を失うことに対して溜飲を下げ喝采を上げている人たちの数は少なくない。

われわれは「人の不幸は蜜の味」という後ろめたい喜びを味わっていないといえるだろうか。そして、われわれの社会に他人の成功や幸福を妬む負の嫉妬がヘドロのように沈殿していないと言い切れるだろうか。

負の嫉妬は本人を焼き殺す呪詛

負の嫉妬が無くなるか、あるいは弱まれば、少しはこの社会も過ごしやすくなるだろう。

妬みの感情に振り回されずにうまく付き合えるようになると、世界が薄皮を一枚剥いだように輝いて見えてくるようになる。他人との比較の中に己の幸不幸を測るのではなく、己自身の中に幸福の基準や価値観が定まってくるようになる。

妬みや恨みとは他人を不幸にするための呪術ではなく、本人を焼き殺す呪詛であることを知らぬまま人生を過ごしている人は哀しい。