「やばい」という言葉に侵食されてゆく日本語コミュニケーション

マジ+チョー+やばい=???

「やばい」だけで100ページを要する未来の国語辞典

いずれ国語辞典では、「やばい」という言葉の意味や用例だけで100ページくらいの分量を必要とするようになるかもしれない。もちろん冗談ではあるが、それくらい「やばい」という単語の持つ意味が多種多様で多義的なものになってきている。

何でもかんでも、正反対の意味でも「やばい」で済ませる

例えば、私が日頃接している若者たちは、感情も味覚も、価格も気温も何から何まですべて「やばい」で表すのがいたって普通だ。彼らが「マジやばいっす」と言う時には、何がどうやばいのかを、状況や表情あるいは声の調子などから読み取って瞬時に解釈してあげないといけない。マジ疲れる。

そして、問題なのは、正反対の意味を同じ「やばい」で表現することだ。例えば、美味しくても「やばい」だし、まずくても「やばい」なのだ。同様に、暑くても「今日マジやばい」だし、寒くても同じ表現になる。

日本に来る外国人も「やばい」だけ覚えておけば安心

日本に来た外国人は、まず「やばい」という言葉だけ覚えれば良いと思う。その次に、「マジ」だ。そして余裕があれば、「チョー」を追加すれば完璧である。グッドもバッドも、ライクもヘイトも、ビューティフルもアグリーも何でもかんでも一つの単語で表現することができる「やばい」は現代日本語におけるスーパーワードである。

最高においしいラーメンを食べても、ものすごく好みのタイプに出会っても、財布を落として困っても、富士山に登って感動しても、「マジ、チョー、やばい」で済む。ただし、TwitterやLINEで、何の説明もなしにこの一文を送るだけでは何の意味も伝わらないだろうが。

濃密な文脈を共有することでしか「やばい」は通じない

「やばい」のみで会話が成立するのは、時間と場を共有する仲間内で極めて濃密な文脈が共有されているからだ。濃密で同質的な狭い文脈が。

だから、仲間内では「やばい」という同じ言葉を様々な意味で用いても理解してもらえる。しかし、一歩、仲間の外に出たら、そのような解釈はしてもらえなくなる。

まさに日本語のコミュニケーション能力自体が「やばい」

英語に代表される外国語を習得することも、コミュニケーションの可能性を広げてゆくために重要だろう。しかし、すべての単語が「やばい」に次々に侵食されてゆくようでは、外国語以前の話として、足元の母国語である日本語でのコミュニケーション能力がどんどん低下してゆくことになりかねない。

多様な属性や価値観を持つ人びとと「ともに生きる社会」では、文脈をあまり共有していない人びとともコミュニケーションをおこなっていかなければならない。その時に、仲間内でしか通用しないコミュニケーション能力では、大きなハンデを負うことになる。

クレヨンの色数が少ないと表現の幅が狭まるように、語彙が少ないと会話の彩りが単調になる。「やばい」というクレヨン一本のみでは、世界を表現するには全く足りない。

「禁やばいデー」を設けてみてはいかが?

たまには、丸一日「やばい」という言葉を使わずに過ごしてみる「禁やばいデー」を自分に課してみるというのはいかがですか?

あるいは、仲間どうしで「やばい」と口にするたびに罰金を取って、集まったお金を慈善事業に寄附するというゲームをやってみるというのはいかがですか?


それってマジやばいっすかね?