感情的な心配性は手に負えない

心配してあげることを唯一の情愛表現と思い込んでいる人

愛情や友情の表現としての心配

心配してあげることを、ほぼ唯一の愛情や友情の表現手段だと思い込んでいる人がいる。

心配するためには、家族や友人の身に災厄が降りかかることや、その将来に暗雲が立ち込めることなどを想像するしかない。

よって、つねに愛する人や大事な人たちの陰惨な未来予想図ばかりが頭の中を駆け巡ってしまうことになる。

心配させられているという被害者意識に発展

「愛しているから心配しているのよ」は、時の経過とともに「心配してあげているのになぜわからないの!」という非難に変わってゆく。

さらには、「心配させられている私のことが心配になったり、かわいそうになったりしないの?」といった歪んだ被害者意識にまで発展してゆくことすらある。

心配してもらうことでしか情愛を確認できない

そういう人は、かように相手から心配してもらうことでしか、他者の自分に対する情愛も確認することができない。

そのため、自分自身の現状や将来についてもつねに悲観的なことばかりをアピールしては、なんとかして自分のことを心配してもらおうと努力する。

その結果、己の将来イメージもまた、つねに否定的なもので彩られていってしまうことになる。

理性的な心配性と感情的な心配性

確かに、愛している人や大事な人たちのことは気にもかかるし、心配にもなる。

しかし、情愛の確認手段が心配することだけに限定されてゆくと、本人も周囲の人たちも同時に不幸になってゆく。

理性的な心配性はまだ何とかなるが、感情的な心配性だけは手に負えない。