断捨離のあと、手元に残るものは何か

身軽になった本当の自分が浮き彫りになる

ものをたくさん持っているということ

高価なもの、珍しいもの、貴重なもの、人から羨ましがられるようなもの、多くの人が競い合って手に入れようとしているもの。

そういうものを、たくさん持っているということ。

それが豊かなことだ、リッチになることだ。

そうでない状態は貧しいことだ、みじめなことだ。

「良いものを競い合って奪い合うのが人生だ」という思い込み

そう単純に思い込んでいた。いや、思い込まされていた。

人生というのは、それらをどれだけたくさん手に入れることができるかを競うゲームであるのだと。

もちろん、手に入れたいものの中には、学歴や職業、地位や資格、家柄や交友関係あるいは収入や財産などといった「物ではないもの」も含まれている。

むしろ、形あるもの以上にそちらの方をわれわれは競い合い奪い合ってきたのかもしれない。

「何を持っているか」が自分を表す

自己紹介を求められた時、たいていの人は、出身地や出身校、勤め先や肩書、居住地や家族構成などについて語るのではないだろうか。そして、「つまらない趣味ですが……」などと断りながら、さりげなく所有しているものの自慢話も織り込むだろう。

それらの中には「その人自身」は一切含まれておらず、自分に付属している「持ちもの」を列挙しているに過ぎない。

たとえば、「一等地に一戸建てを構えて高級車を乗り回している、人も羨むような仕事についている高学歴で高収入の人間が、私だ」というような、セレブな人にはセレブな人なりのセルフイメージが必ずあり、それをさりげなく誇示しているのではないだろうか。

ものを持っているのは良いことばかりではない

良いものをたくさん持っていることは、良いことである。

ところが、ある時必ずしもそうではないことにハタと気づかされた。ものを持っているということは、煩わしいことでもあるのだ。

「私の何々」が増えてゆくにつれて、自分自身のセルフイメージがどんどん鈍重になってゆく。そして、それらのものに頼らなければ、己が何者であるかすら自分自身でも確かめられなくなってゆく。

持ちものが重くなるにつれて、自分自身は空虚になってゆく

そして、管理しきれない、面倒を見きれないものが、溜まってゆくにつれて、精神がどんどん鈍くなってゆく。持ちものの重さに反比例するように、本来の自分自身が空虚になってゆく。

そうなってくると、手足に鎖や重りをつけられて身動きが取れなくなっているのに、その手枷足枷の豪華さや希少っぷりを自慢しながらそれを磨き続けている囚人のような滑稽な状況に陥ってしまいかねない。

本来、持ちものの主人であったはずの自分が、反対に、持ちものの使用人あるいは奴隷かのように、彼らからこき使われることになってゆく。

必要なものと不要なものを見極め、身軽になる

必要なもの、大事なもの。
不要なもの、どうでもよいもの。

それらを見極め、ともに生きてゆくべき本当に大事なものだけを選んで手元に置いておけば、手枷足枷は解け、自由を取り戻せる。ものの奴隷から、ものの主人に立ち返れる。

「身軽さ」の素晴らしさをもう一度考えてみよう。

シンプルに生きてゆくことの美しさについてじっくりと見つめ直してみたい。

人生観や価値観が自分自身を定義する

断捨離をしてゆき最後の最後に残るのは、自分自身である。

世の中に対する己の向き合い方を決めることになる、人生観や価値観はどのようなものか。いかなる原理や原則を大事にしながら今を生きているのか。

「何を持っているか」ではなく、「どのように生きているか」で自分自身を定義づける。

そうすれば、不要なものに縛られて生きるのではなく、大事なものとともに生きてゆくことができるようになる。

そして、ものをかき集めることで達成しようとしていた自分探しは、そこで終わる。